国際卓球・臼田豊社長に聞く「答えが出なかった。路面店ならではのやり方をやるしかないなと」
卓球王国PLUS独占インタビュー <前編>
老舗でありながら、卓球ショップの先端を行く「国際卓球」。義理の母から受け継いだお店を成長させ、関東に5店舗を構え、ネットショップも手掛ける臼田豊社長にインタビュー。
ショップとしてのブランド力で海外からも多くの人が訪れる「国際卓球」。路面店とネット通販店との共存は? 卓球ショップは何をすべきなのか。

うすだ・ゆたか
1952年9月3日、東京生まれ。アパレル業界で8年働き、その後、結婚を機に1982年に国際卓球株式会社に入社。国際卓球は1959年に設立され、本店は東京の高田馬場。臼田が入社と同時に渋谷に出店。その後、上大岡、町田、所沢に出店すると同時に通販のαラインもスタートさせ、日本最大の卓球ショップとなっている。
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国際卓球高田馬場店とスタッフの皆さん
最初は「ウェアがダサいな~」と思いましたよ(笑)。ラバー、ラケットはわからないから、どうしてもウェアに目が行く
●ー臼田さんがこの業界に入って何年になりますか?
臼田 結婚して国際卓球に入ったのは1982年で、世界選手権東京大会の前の年ですね。お店(本店)は高田馬場の駅のそばの線路沿いにあったんです。
●ー創業者の娘さんと結婚して、国際卓球に入ったんですね。それから43年経ちましたね。
臼田 そうです。義理の母が創業者の跡を継いで何年かお店をやっていて、ぼくが後を継いだ形ですね。社長になったのは1989年頃かな。義理の母(萩原昭子)はリスクは自分で背負って、お金を持っていないぼくに会社のことを任せてくれた。とても感謝しています。
●ー臼田さんはもともと卓球人ではなく、アパレルで仕事をしていた人ですよね?
臼田 そうです。女房のことが好きで結婚して、卓球の業界に入った形ですね。結婚する前から家庭の事情(国際卓球の承継)もわかっていました。
アパレルの仕事の時にはお店にも立っていました。自分が入ったのは「アルファキュービック」という会社で、社長もやり手だった。サンローランのお店にもいました。renoma(レノマ)、アルマーニ、プラダでも仕入、販売をしていました。パリ、ミラノ、フィレンツェに毎年買付けに行っていたのを思い出します。楽しかったね。辞める時にはrenomaの8、9店舗の責任者をやっていたんです。普通のサラリーマンじゃないし、仕入れや小売もやっていたので、「卓球ショップも小売だから同じだよな」と思ってこの業界に入ってきたんです。
●ー卓球ショップ、卓球業界の最初の印象はどうでしたか?
臼田 最初は「ウェアがダサいな~」と思いましたよ(笑)。ラバー、ラケットはわからないから、どうしてもウェアに目が行くけど、ぼくが入った頃はウエアでもラインセブン、ステッチセブン(ともにバタフライ)とかが流行していて、手縫い風のステッチを使ったウエアとかもあり、ひとつの商品を定番として4、5年販売していた時代です。仕入れをすると言ってもバイヤーの力はいらなかった。今とは違います。

