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【アーカイブ】木村興治「荘則棟の前に荘則棟なし、荘則棟の後に荘則棟なし」

2013年5月号 木村興治インタビュー(世界ダブルスチャンピオン/元国際卓球連盟副会長)

2010年6月、木村氏が病院に見舞いに行った時の荘則棟氏

2013年2月10日、1961年大会からの3回の世界選手権で世界チャンピオンとなった荘則棟が中国・北京の病院で息を引き取った。72歳だった。

 当時、中国の各メディアは彼の死を大きく報道し、国家チームの元劉国梁総監督(前協会会長)をはじめ、張継科、丁寧という世界チャンピオンも大先輩の逝去の報に哀悼の意を表した。

 61年世界選手権北京大会で20歳で世界デビューし、中国男子の団体初優勝の立役者となり、シングルスでは世界選手権で3連覇している。中国は66年に政治、文化の改革運動である文化大革命が始まり、67年と69年の世界選手権に不参加。当時の世界チャンピオンの荘則棟にとっても、それは辛いものだった。

 荘則棟は文革の辛い生活の後、71年の世界選手権名古屋大会で国際舞台に復帰した。シングルスは2回戦で棄権したが、男子団体で優勝。この大会期間中に、間違って中国選手団のバスに乗り込んだアメリカのコーワン選手と荘則棟が交流を持ったことがきっかけで、中国とアメリカの卓球チームが双方を訪れ、後に両国の国交樹立につながった。卓球が大きな役割を果たした。いわゆる「ピンポン外交」である。

 その後、荘則棟は74年に国家体育運動委員会主任(スポーツ省大臣)に就任し、スポーツ外交の最前線で活躍するも、76年に江青(毛沢東夫人)らの四人組が逮捕された際に失脚し、その後4年間投獄生活を送った。荘則棟が卓球の世界に戻ったのは80年。北京ではなく、山西省のコーチとなり、4年間を過ごした。

現役時代に荘則棟と激闘を演じた木村興治氏のインタビューを紹介する。(卓球王国編集部今野)

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1961年世界選手権北京大会 <団体決勝リーグ>

      中国 5-3 日本
◯荘則棟 21-14,24-22        星野展弥
 徐寅生 21-17,17-21、17-21 木村興治◯
 容国団 19-21、19-21     荻村伊智朗◯
◯徐寅生 17-21,21-14、21-18 星野展弥
◯荘則棟 21-13、21-13     荻村伊智朗
 容国団 11-21、21-15、17-21 木村興治◯
◯徐寅生 21-7、21-8       荻村伊智朗
◯容国団 21-15、20-22、21-18 星野展弥

*当時は3人ずつの総当り9シングルス、21点制、中国が優勝、日本は2位

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<男子シングルス3回戦>
荘則棟 17-21、21-19、21-12、21-10 木村興治

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1963年世界選手権プラハ大会 <団体決勝1番>
◯木村興治 22-20、13-21、21-13 荘則棟

荘則棟 そうそくとう/ジュアン・ヅェトン
1940年8月25日、中国・江蘇省揚州市生まれ、北京で育つ。1961・63・65年世界チャンピオン。71年の有名な中国とアメリカのピンポン外交での中心的な存在となり、その後、33歳でスポーツ大臣まで上りつめるが、76年の江青・毛沢東夫人ら四人組失脚とともに大臣を解任され、失脚した。2013年2月10日逝去、72歳だった

木村興治
「荘則棟の前に荘則棟なし、荘則棟の後に荘則棟なし」

荘さんは両ハンド卓球を徹底的に追求しました。新しいものを創造していく意思と行動力が彼にはあったのです

60年代の世界選手権、日中交歓大会と世界選手権で何度も対戦し、荘則棟と互角の戦いをした木村興治。
ライバルという関係を超え、気が合う僚友としての付き合いは荘則棟が亡くなるまで続いた。
木村興治が語る「人間・荘則棟」。

日本選手として、私は一番多く荘則棟さんと試合をしたと思うし、私たちは同年齢で彼とは気持ちが通じ合っていました。

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