【People】古瀬泰之:信条は粘り強さと個性尊重。虹色に輝いた20年の指導
[出雲北陵中・高 監督]
[ふるせ・やすゆき]
1978年12月8日生まれ、鳥取県米子市出身。父が創設した稗原(ひえばら)卓球クラブで卓球を始める。明治大卒業後、青森山田高監督だった故・吉田安夫に誘われ、青森山田中卓球部監督に就任。04年に地元に戻り、出雲北陵中・高卓球部監督に就任。同校は全国上位常連校となり、3月の高校選抜では悲願の初優勝を達成
創部時の部員の雰囲気、空気感が、20年間、後輩たちに受け継がれている
創部から20年目の節目、出雲北陵高は全国高校選抜大会(2024年3月)で、初の全国優勝を果たした。部訓は「No rain, no rainbow」。雨なくして虹はなし、努力があってこそ結果が出る。創部時からチームを牽引してきた古瀬泰之、そして歴代の部員たちの努力の積み重ねが、鮮やかな虹を描いた瞬間だった。
(卓球王国2024年6月号掲載)
出雲西高から名門・明治大に進学した古瀬は、もとより教職・指導者志望だった。強豪揃いの明治大ではレギュラーには入れなかったが、4年時の秋季関東学生リーグ戦、順位決定後の最終試合で起用された。主務としてチームを支えてきた古瀬に対する、佐藤真二監督(当時)の粋なはからいだった。
そして古瀬が卒業するタイミングの01年春、青森山田が高校に続いて中学部を立ち上げることとなった。その際、故・吉田安夫監督から声をかけられ、古瀬は青森山田中に教員として赴任し、卓球部監督に就任。高木和卓、大矢英俊ら中学部一期生が入るタイミングで、古瀬はいきなり全国優勝を経験した。
学生リーグ出場も、ヤマダでの優勝経験も、もちろんただの幸運ではない。古瀬の努力と人柄が買われてのことだ。
「吉田先生のチームマネジメントを一番近くで見させてもらい、日本一へのプロセスを勉強させてもらった。もちろんヤマダに入る選手と、今の北陵に入る選手のレベルは全然違うので、今は自分のカラーを付け加えています」(古瀬)
古瀬曰く、ヤマダの練習に特殊な内容は一切なかったという。基礎練習を徹底し、ミスをなくす。そのために集中力をマックスにする。粘り強く連打で得点を重ねる今の出雲北陵スタイルは、ヤマダの影響なしには語れない。
「また、大矢も卓もきれいなフォームじゃなかったけど、力を発揮している限り、吉田先生はフォームを変えることはなかった。『個性を生かす』という点も、今の指導に生かしています」
これら吉田イズムの継承が、出雲北陵の出発点であることは間違いないが、もうひとつ重要な原点がある。
当初は高校部のみでスタートしたが、その一期生10名のほとんどは公立校出身者で、全国大会に出られなかった選手ばかりだった。「だからこそエネルギーがすごかった。生徒たちの強い要望で学校に寝泊まりして合宿し、夜遅くまで自主練習をして、その場でラケットを手に寝ていた生徒もいた。その雰囲気、空気感が、20年間、後輩たちに受け継がれているんです。私が『ちゃんとやれ』と言うことはなく、最初からやる気がある選手が入ってきてくれる。良い生徒に恵まれています」(古瀬)。
出雲北陵には長年、学生寮がなく、遠方の生徒は古瀬の実家に下宿していた。しかし、島根県出身の石倉佳則が社長を務める㈱SREの協力のもと、23年4月に卓球部寮が竣工。21名が入寮できる施設の竣工1年目、そして創部20年目の記念すべき年度に、出雲北陵高は全国優勝の悲願を達成したのだ。
「選手たちには、『トップ校にはバケモノたちが集まっているけど、3年、6年で自分たちがバケモノになれるんだ』と、これまでも言い続けてきた。でも今回の優勝で、下の世代はさらにやる気が出たはずだし、高校卓球界全体が『オレたちもできるんだ』と思ってくれたんじゃないかと思います。うちはまだまだ絶対的な力のあるチームではない。自分自身もアップデートさせ、多くの専門家にご協力いただきながら、日々チャンレジを続けていきたいです」(古瀬)
全国優勝は通過点。あくまで謙虚に、地道に歩み続ける古瀬と、虹色のユニフォームを身にまとった部員たちは、さらなる歴史を重ねていく。
(文中敬称略)