真説 卓球おもしろ物語26【卓球ニッポン復活の萌芽、福原愛と松下浩二】
〈その26〉卓球王国2022年8月号掲載
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卓球史研究家・卓球コラムニストの伊藤条太氏が、独自の視点で卓球史を紹介するこのコーナー。今回は1990年代前半から1995年の世界選手権までをピックアップ。福原愛、松下浩二という、その後の日本卓球界に大きな影響を与えるふたりが注目を集め、世界では中国男子が新ヒーロー誕生とともに世界の頂点に返り咲いた。
参考文献:「愛ちゃんの、あ。」福原千代(リイド社)、「ザ・プロフェッショナル」松下浩二(卓球王国)
“泣き虫愛ちゃん”こと福原愛の登場
卓球が五輪種目に初めて採用された1988年ソウル五輪の年、日本卓球界を変えることになるひとりの少女が宮城県仙台市に生まれた。福原愛である。
地元の卓球選手だった母・千代の指導で、3歳9 カ月から卓球を始めた。当時すでに小学2年生以下の大会「バンビの部」があったから、6歳ぐらいで始めるケースはあったにしても、言葉も未熟な3歳児に卓球をさせるという発想は一般的ではなかった。体も小さく、根気(こんき)の面でも無理だと思うのが普通だろう。
しかし千代にそんな考えはなかった。踏み台を用意して卓球台から顔を出させ、ラケットに当てる練習から始めた。それができるようになると、今度はラリーを続ける練習を始めた。4カ月で百本続き、8カ月後にはなんと千本続いた。4歳5カ月で、33分間一球もミスしないでの千本ラリーである。驚くべきことにこの千本ラリーは、小学2年生まで練習の最初に毎日必ず行われた。練習時間は平日が4時間で土日は6時間、休日はなかった。
福原が初めてマスコミに注目されたのは、4歳10カ月で出場した全日本選手権バンビの部である。宮城県予選を1位で通過し、全国大会でベスト16に入ったのだ。愛くるしい女の子が必死にボールを追いかけ、ときには負けて悔(くや)し泣きをする様子がお茶の間に放送され“泣き虫愛ちゃん”として知られるようになった(実際には特別に泣き虫だったわけではなく、泣いた部分だけが強調して放送されたという)。翌年には5歳ながら全日本のバンビの部で優勝し、日本中で知らない者はいない存在となった。
神童(しんどう)が後に凡人(ぼんじん)になってしまうのはよくあることだ。福原の将来性についても、当初は疑問の声もあった。しかし福原は順調にアスリートへの階段を駆け上がり、やがて押しも押されもせぬトップアスリートとなった。奇跡と言ってよい成功物語だった。
その成功は、日本中の卓球人に影響を与えずにはおかなかった。石川佳純が卓球を始めたのは、福原が史上最年少の11歳で全日本(1999年/平成11年度)の一般の部で勝利する快挙を成し遂げて間もなくのことだったし、伊藤美誠と平野美宇がそれぞれ2歳、3歳で卓球を始めたのは、福原が史上最年少の14歳で世界選手権(2003年)に出場してベスト8入りする前後のことだった。彼女らの親にとって、福原の成功が心のよりどころになったであろうことは想像に難(かた)くない。
現在の日本の卓球に福原が与えた影響はあまりに大きなものだった。