ロゴ画像
卓球王国PLUS > インタビュー > ピンポン外交の裏側。「政治の舞台は私のいるべきところではなかったのです」荘則棟
記事見出し画像

ピンポン外交の裏側。「政治の舞台は私のいるべきところではなかったのです」荘則棟

[アーカイブ・2003年インタビュー]国家の英雄、失脚、そして投獄。荘則棟、波乱万丈の人生を語る Vol.4

1971年世界選手権名古屋大会。
バスに迷い込んだひとりのアメリカ選手に声をかけたことで、荘則棟は一躍ピンポン外交の主役となった。その後、74年にスポーツ大臣までのぼりつめた荘則棟は76年に四人組逮捕とともに失脚し、投獄された。世界チャンピオンとスポーツ大臣。ふたつの栄光をつかんだ男はどん底に落ちていった。

これが「ピンポン外交」の話ですが、私、荘則棟はボールを卓球台のこちらから向こう側に打つだけの選手です。私は卓球しかできない。時々はネットするし、時々はオーバーもします

Interview & Photographs by

今野昇Noboru Konno

Translation by

杜功楷・鄭慧萍Du Gongkai, Zheng Huiping

そうそくとう/ジュアン・ヅェトン
1940年8月25日、中国・江蘇省揚州市生まれ、北京で育つ。1961・63・65年世界チャンピオン。71年の有名な中国とアメリカのピンポン外交での中心的な存在となり、その後、33歳でスポーツ大臣まで上りつめるが、76年の江青・毛沢東夫人ら四人組失脚とともに大臣を解任され、失脚した。2013年2月10日逝去、72歳だった

「えっ、アメリカチームが中国に訪問したい? まだ時期じゃないだろ」

名古屋大会を前にして、69年にニクソンが大統領に就任し、その後、中ソの武力衝突、70年の中米大使級会談再開と、アメリカ・ソ連・中国の3大国をめぐる国際情勢は大きく動き、丁々発止の外交のやりとりがあったことが、「ピンポン外交」の背景にはある。
小さな白球が、時に海を越え、政治を動かす。名古屋大会の翌年の72年にはニクソン大統領訪中、同年に日中国交正常化、79年に米中国交樹立という国際政治の流れの中で、ピンポン外交が果たした役割は大きい。もし名古屋大会をきっかけとしたピンポン外交がなければ……、もし荘則棟がバスの中でコーワンに話しかけなければ……歴史の歯車は微妙にその速度を変えただろう。

 バスが体育館に着くとそこには報道陣が待ち構え、カメラを向けられ写真を撮られ、翌日の新聞の一面にこの時の写真が載りました。「中米接近」という大きな見出しの下に、写真と文章が掲載されていました。

 その日の夜、新聞を持ってきた副団長に「見てください。このことはかなり大げさになっていますよ」と言われました。私は副団長に「毛沢東主席はアメリカの政策を作る人と、ふつうの人民と区別して接触しなければいけないと言っていましたよね」と弁解すると、副団長も言葉を失いました。その時、彼は「ここまでだよ、ここまでだよ。荘則棟、あなたは卓球だけをしていればいいんだよ。政治的なことは私たちが何とかします」と言ってきました。その時の幹部たちは私ととても仲が良く、団体戦の試合前に「小荘(荘則棟)、あなたから見ると誰が試合に出れば一番いいだろう」と相談されるほど、信頼も厚かったのです。幹部たちに向かって私は答えました。「わかりました。これからは試合を一生懸命やります」。

卓球王国PLUS有料会員になると続きをお読みいただけます

卓球王国PLUS有料会員は月額440円/税込。
登録すると「卓球王国PLUS」の記事をすべて閲覧できます。
退会はいつでも簡単にできます。