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[魔球を操った男]世界で初めて粒高を操った張燮林「工場で捨てられていたラバー」

卓球王国2013年3月号【伝説の人】張燮林 Zhang Xielin Vol.2

昔のルールでは現在のように試合前に相手にラケットを見せる必要はなかった。
1960年、1970年代の中国選手は他国の選手に用具を見せることはしなかった。そのためにその時代に活躍した張燮林、林慧卿、鄭敏之、梁戈亮などが使っていたラバーを日本選手は通常の「一枚ラバー」と思いながら、「なぜあんなに変化が出るんだろう。手首の使い方がすごいのか」と思っていた。
そのきっかけを作った張燮林のラバーの秘密が解き明かされる。

「廃棄処分のラバーをたくさんもらったんだ。もったいないから試しに打ってみたら、すごく使いやすいものがあって、偶然自分に合うラバーを発見した。うれしかったね」

張燮林 チャン・シィエリン
1940年6月25日、中国・江蘇省生まれ、上海で育つ。1961・63年世界選手権シングルス3位、63・65年の世界選手権団体優勝に貢献し、63年に男子ダブルス、71年に混合ダブルスでそれぞれ優勝した。72年に女子コーチに転身し、75年からの団体8連覇にコーチ、監督として貢献。95年天津大会まで女子監督を務めた

Interview by

今野昇Noboru Konno

通訳=偉関絹子 interpreter by Kinuko Iseki 翻訳協力=謝静 translation by Xie Jing 写真=渡辺友 photographs by Tomo Watanabe

廃棄ラバーだった粒高ラバーを使い、世界選手権代表の座をつかみ、1961年北京大会で3位に入賞

 上海でメキメキと力をつけていった張燮林だが、彼の潜在力をより発揮させたのは粒高ラバーという用具だった。ペンホルダーのカットスタイルで片面のみに粒高ラバーを貼り、世界的にも珍しいプレースタイルと「魔球」と呼ばれた彼のカットの変化は、工場で捨てられた廃棄ラバーとの出合いから始まった。

1958年の全国大会を経験し、59年の第1回全中国運動会を終えた後、59年の年末か1960年の初めに、私は上海チームに入った。当時、上海チームに呼ばれた時はすごく迷っていたんだ。

 実は、上海チームにあまり入りたくなくて、そのまま、工場で働きたいと思っていた。上海汽輪機廠は全国重点企業になっていて、外から汽車がそのまま中へ入っていくほどのすごく大きな工場だった。今は大手企業の上海電気グループに合併されたけど、当時は上海汽輪機廠へ入るのは容易ではなかった。だから上海チームから話があった時は迷っていた。

 卓球を続けるか、工場へ戻るか。考えても結論は出ず、1年余りの時間が経った。そんな時に上海体育委員会のある人にこう言われた。「上海では、君みたいな労働者がいっぱいいるんだよ。でも、君みたいに上手な卓球選手がなかなかいない。どう決めるか、君が自分でよく考えてごらん」。

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