1950年代の軍拡競争~スポンジ革命~〈その2〉前編
卓球王国2026年6月号掲載「The 1950s Arms Race』 1950年代の軍拡競争~スポンジ革命~〈その2〉より
卓球コラムニストで卓球史研究家として活動する伊藤条太氏が、アメリカの卓球史研究家による記事を翻訳し紹介。1952年世界選手権男子シングルス優勝の佐藤博治が使用した「スポンジラバー」が世界の卓球界に衝撃を与え、そこから巻き起こった「スポンジ革命」について、綿密な取材と調査にもとづき深掘りした興味深い内容となっている。今回は、6月号に掲載された内容のその前編を紹介する。
●1950年代の軍拡競争~スポンジ革命~〈その1〉後編 はコチラ
Text by Steve Grant
Translated by Jota Ito
■Profile Steve Grant スティーブ・グラント
著書に『Ping Pong Fever、The Madness that Swept 1902 America』(2012年)がある。また、2023年9月に『TABLE TENNIS HISTORY』を創刊し、年に3冊のペースでインターネットで発表し続けている。

アカデミー賞の9部門にノミネートされ、日本でも3月13日から劇場公開されたアメリカ映画『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』は、1950年代のアメリカの卓球選手が巻き起こす大騒動を描いた映画である。熱狂的なファンが多いイケメン俳優、ティモシー・シャラメ演じる主人公マーティ・マウザーが、優勝を狙って参加した大会の決勝で無名の日本選手、コト・エンドウと対戦する。日本は戦後初めての国際大会への出場で、その実力は未知だったが、マウザーはエンドウに圧倒されて敗れてしまう。その大きな理由が、エンドウがラケットに貼っていた分厚いスポンジだった。スポンジは、打球音が小さいうえにそれまで世界のトップ選手たちが使っていたラバー(現在の一枚ラバー)とは比較にならないほど速いボールを放つことができた。映画ではその音のしない速球が「まるで幽霊のようだ」と表現されている。敗北に納得がいかないマウザーはエンドウにリベンジをするために東京に向かうというのが大まかなストーリーだ。
実はこれは、実在した卓球選手と卓球界で起こりつつあったスポンジ革命をそのまま再現する内容となっている。主人公のマーティ・マウザーのモデルは、1949年世界選手権男子シングルス銅メダルのマーティ・リーズマン(アメリカ)だし、エンドウは、厚さ7㎜のスポンジを使って1952年世界選手権ボンベイ大会(インド)で優勝した佐藤博治である。映画と同様、リーズマンは男子シングルス2回戦で佐藤に敗れており、その3カ月後に来日して佐藤にリベンジしている。
本稿は、アメリカの卓球史研究家、スティーブ・グラントが国際卓球連盟の会報『テーブルテニス・コレクター』2015年2月号で発表した、スポンジ革命当時の各国の新聞や雑誌の生の声を紹介した「1950年代の軍拡競争」の第2回である。佐藤博治の優勝から始まったスポンジに、ある者はスポンジを拒否し、ある者は率先して受け入れる様子が描かれる。 〈伊藤条太〉
「1954年世界選手権男子シングルス決勝(荻村伊智朗vs.ターゲ・フリスベリ)は、ラリーが続かず、これまで見た中で最悪のものである」
あるライター
1952年末にインディアナ州で開催された全米チーム選手権で、アメリカのトップ選手のほとんどが初めてスポンジを目にした。その1、2週間後、南カリフォルニア卓球協会は、大会でのスポンジの使用を禁止した。(詳細は、ボーガン著『ヒストリー・オブ・US・テーブルテニス』第3巻第3章「ハリウッドで禁止」参照)。禁止令は1シーズンしか続かなかったが、1955年、卓球が「熟練した選手同士の楽しい競技というよりは、策略と用具の戦いになっている」と感じた選手たちが、一枚ラバーのみの独自の競技団体を立ち上げた。USオープンに参加したイングランドのリチャード・バーグマン(訳注、世界選手権で金メダル7個)は、1956年初頭までには、カリフォルニア州のトップ選手のほとんど全員がスポンジを使うようになっていたと書いている。アメリカにおけるスポンジの第一人者であるカリフォルニア出身のアーウィン・クライン(17歳)は、「今日の世界には、スポンジを使う選手と負ける選手の2種類がいる」と語った。その数週間後、彼は1956年世界選手権でリア・ノイバーガーと混合ダブルス優勝の栄冠に輝いた。写真は、その3年前、スポンジ解禁を訴えるプレートをげるクラインの姿だ。

