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ピンポン外交はこの人から始まった。伝説のチャンピオン荘則棟「捨てたプライド」

[アーカイブ・2003年インタビュー]国家の英雄、失脚、そして投獄。荘則棟、波乱万丈の人生を語る Vol.1

3大会連続世界チャンピオンという偉業。文化大革命でその栄光が途絶えたものの、6年後に復活。世界史を動かした「ピンポン外交」の主役を演じた。
スポーツ大臣として脚光を浴び、さらにその後失脚、という波乱に満ちた人生を送った伝説のチャンピオン、荘則棟が、赤裸々に「自分史」を語った。

Interview & Photographs by

今野昇Noboru Konno

Translation by

杜功楷・鄭慧萍Du Gongkai, Zheng Huiping

そうそくとう/ジュアン・ヅェトン
1940年8月25日、中国・江蘇省揚州市生まれ、北京で育つ。1961・63・65年世界チャンピオン。71年の有名な中国とアメリカのピンポン外交での中心的な存在となり、その後、33歳でスポーツ大臣まで上りつめるが、76年の江青・毛沢東夫人ら四人組失脚とともに大臣を解任され、失脚した。2013年2月10日逝去、72歳だった

1961年北京大会での荘則棟。両ハンドによる前陣速攻、フリーハンドを巻き込む独特な打法で世界選手権3連覇を達成した

この映画を見たあとには、荻村さんと田中さんが私の先生だと思うようになりました。私は荻村さんと田中さんの門に入っていない弟子だったのです。当時、私は16歳でした

 

2013年2月10日、1961年大会から世界選手権を3連覇した伝説の王者、荘則棟が中国・北京の病院で息を引き取った。72歳だった。  当時、中国の各メディアは彼の死を大きく報じ、国家チームの劉国梁元総監督(前・中国卓球協会会長)をはじめ、張継科、丁寧といった世界チャンピオンたちも、大先輩の逝去に哀悼の意を表した。

1961年の世界選手権北京大会、20歳で世界デビューを果たした荘則棟は、中国男子団体初優勝の立役者となり、個人戦シングルスでも世界選手権3連覇を成し遂げた。しかし、中国では66年から文化大革命が始まり、67年と69年の世界選手権は不参加を余儀なくされる。当時の世界チャンピオンであった荘則棟にとっても、それは過酷な空白期間であった。

文革による辛苦の時を経て、荘則棟は71年の世界選手権名古屋大会で国際舞台に復帰する。シングルスは2回戦で棄権したものの、男子団体では優勝に貢献した。  

この大会期間中、間違って中国選手団のバスに乗り込んだアメリカのコーワン選手と、荘則棟が交流を持ったことがきっかけとなり、米中両国の卓球チームによる相互訪問、そして後の国交樹立へとつながっていく。卓球が歴史を動かした、いわゆる「ピンポン外交」である。

その後、荘則棟は74年に国家体育運動委員会主任(スポーツ省大臣に相当)に就任し、外交の最前線で活躍した。しかし76年、江青(毛沢東夫人)ら「四人組」の逮捕に伴い失脚。4年間の投獄生活を送ることとなる。  荘則棟が卓球界に戻ったのは80年のこと。北京ではなく山西省のコーチとして4年間を過ごした後、北京の少年宮で指導にあたったが、彼が再び中国卓球協会の中枢に戻ることはなかった。

2003年、北京の新僑飯店(ホテル)で行われた8時間に及ぶインタビューを、全5回にわたって掲載する。

私が国のために頑張ろうと決意した、ひとつのきっかけがあります

中国で荘則棟の名前を知らない人はいない。61年からの世界選手権シングルス3連覇。それは、49年に建国した新生中国を象徴するスーパーヒーローの誕生だった。その後、スポーツ大臣まで上りつめたあとに失脚し、中央の舞台から忽然と姿を消した。
中国の自由化、開放政策とともに、名誉回復。96年に発行した自叙伝が60万部のベストセラーになるなど、再び卓球界にその姿を見せた荘則棟。
2003年3月28日、場所は北京。朝から夕方まで8時間近くの独占インタビューが始まった。しかし、それは彼の波瀾万丈の人生を語るには短すぎたのかもしれない。

 人間一人ひとりは誰でも物語のような経験を積み重ね、一冊の本になるような人生を送るものです。しかし、たぶん、中国の卓球界で、私ほど特別で、伝説的な経験を持っている人間はいないのではないでしょうか。

 私の今までの人生というのは、四つの特別な物語から成り立っています。ひとつは家族、二つ目は経歴、三つ目は卓球の成績、四つ目は結婚。それぞれがほかの人とは違う特別なものです。

 私は1940年8月25日に揚州で生まれました。ここは鑑真和上の出身地です。6人兄弟の5番目として生まれ、上に男2人、女2人、下に妹がいます。卓球は8歳か9歳で始めましたが、ほかの兄弟は誰も卓球をやっていません。

 私の卓球の経歴を話すとなると、自分の家族の話からしなければいけません。

 私の家庭、家柄は知識階級というか文化人と言うべきカテゴリーでした。父は杭州出身で、母は北京出身、父方の祖母は揚州の出身です。父と母が揚州に祖母の墓参りに行った際に日中戦争が勃発して、南から北に行く交通が遮断されたために5年間住むことになり、その間に私が生まれました。ところが、私はそこの気候に慣れなくて、病気ばかりしていたそうです。私は小さい頃、体がとても弱かったのです。

 1945年に戦争が終わり、南北の交通も元に戻って、父は家族を連れて北京に向かいました。その時、私は5歳。体重は15㎏で、とてもやせていました。父は6歳の時に私に武術を始めさせ、11歳の時まで6年間続けました。

 8歳か9歳の時に学校に入り、体も小さく丈夫でなく、バスケットボールをやるには背が届かず、サッカーをするには体力がないために、結局卓球を選びました。最初は卓球というよりもただの遊びでした。当時は誰にも教わることなく、コーチと呼べる人もいなかったのですが、武術よりは卓球のほうがおもしろかったし、遊びながらも、私は卓球に魅力を感じ、強く引き込まれ、この遊びからもう離れられなくなりました。10歳を過ぎたあたりから多少勝負にこだわるようになったものの、それまではずっと遊びとして卓球をやっていたのです。

 ただ、私が卓球を通じて、国のために頑張ろうと決意した、ひとつのきっかけがあります。

 それまで中国にはスポーツの世界的なチャンピオンは誰もいませんでした。当時は、中国人を「東亜病夫」と呼び、東アジアの病人という意味で、差別的な呼び方をされていたほどです。その頃、インドネシアから中国に帰国した華僑の水泳選手で、呉傳玉という選手がいて、彼が国際大会で優勝して、その時に中国選手として初めて国旗を揚げて、国歌が流れるといううれしい出来事がありました。

 当時、私は新聞で、その呉傳玉の優勝によって、その大会開催地の中国大使館の大使、大使夫人、そしてコックさんまでがうれし涙を流したという記事を読みました。これは1954年の出来事です。その時、私は心の中で、「卓球で国のために頑張ろう」と誓いました。

 同じく54年、14歳の時に自分の中での大きな出来事がありました。それは、中国のダライ・ラマとパンチャン・ラマによって、ある儀式の中で私の頭に手かざしをしてもらったことです。もちろん、誰でもその儀式を受けられるわけではありません。

 私の祖父はアジアの大富豪でした。かつ49年に新しい中国が成立したあとに、私の父は仏教界でリーダー的な地位の高い人だったので、その儀式に出て、私はふたりから頭に手をかざしてもらうことができたのです。これも私の中での特別な経験です。

「日本の卓球」という映画を見て、荘則棟は荻村伊智朗と田中利明を師と仰いだ。その荻村(左)とのツーショット

世界チャンピオンになるためには、フォアもバックも両方攻めていかなくてはいけない

14歳の時(54年)に、北京第22中学校の校内大会のチャンピオンになりました。56年には北京市の卓球大会のジュニアの部で初めて優勝し、そのあとから黄応麟というナショナルチームのコーチに教わるようになりました。

 そして56年に東京で行われた第23回世界選手権を8㎜フィルムで見て、さらには、荻村伊智朗さんが自ら製作し、荻村さんと田中利明さんが出演した「日本の卓球」という映画が、田舛彦介さん(タマス創業者)から中国卓球協会の陳先会長に贈られて、陳会長から多くの卓球関係者に配布されました。この映画を見て、その練習法を学び、私は多くの影響と刺激を受けました。当時、中国の銀行でこの映画が上映されていました。銀行には門番がいて、私を入れてくれないために、私は土下座をして、何とか頼み込んで中に入れてもらい、見ることができました。

 この映画を見たあとには、荻村さんと田中さんが私の先生だと思うようになりました。私は荻村さんと田中さんの門に入っていない弟子だったのです。当時、私は16歳でした。

 荻村さんと田中さんの卓球練習法は今でも参考になる部分は多く、それに自分の考えを付け加えていきました。そのふたりの練習法を見ながら、また中国のコーチから多くのことを学びながら思ったのは、世界チャンピオンになるにはカットマンでは通用しない。ペンホルダー日本式のフォアハンド重視の片面攻撃(単面攻)でも駄目だろう。中国のペンホルダーのバックショートとフォアの攻撃スタイルでも駄目だろう。両ハンドで攻める卓球(両面攻)が絶対的にすぐれていると私は判断し、そのやり方を選びました。

 思いつきで選んだわけではなく、ほかのやり方を全部試した結果、私はこの卓球スタイルを選んだのです。55年に、バックはショート、フォアは攻撃、つまり左押し右打ち(左推右攻)という中国伝統の前陣速攻のスタイルを試してみました。カットマンは打たれっぱなしになる消極的なスタイルだし、日本のフォアハンドだけの片面攻撃も全面的ではないのです。

 世界チャンピオンになるためには、フォアもバックも両方攻めていかなくてはいけない、というのが私の考えでした。当時、両ハンドで攻撃する王傳耀、胡炳権という選手が中国にいましたが、少し台から下がって打つスタイルでした。そのふたりは身長があるから良かったけれども、私は身長がないので、前陣で攻撃するスタイルを自分なりに作りました。現在、世界の卓球では中陣で両ハンド卓球をする選手がたくさんいますが、私自身、この前陣での両ハンド攻撃を作り出したことが、自分の卓球生活に大きな影響を与えました。つまり、この両ハンド攻撃のやり方を実践し始めてから、それまでコーチに教わったフットワーク、スイングが合わなくなったのです。

 その頃は真似する人もいなかったので、やり方だけでなく、その打法の名前(呼び方)も自分でつけたほどです。私は斬新な打法を作りましたが、当時、私のコーチだった傅其芳は私の打法に対して反対でした。私の打法は安定性に欠けていて、ラリー中の強打が多くなることで、勝つのも早いが負けるのも早かったのです。

現役時代の荘則棟。61年世界選手権北京大会でのシド(ハンガリー)戦

何か新しいものを創り出すためには、何かを破壊しなければいけません

1950年代、初めて世界選手権に出場した中国は、日本が世界を席巻する傍らで、徐々にではあるが、その王座を狙っていた。地元北京での世界選手権を2年後に控えた59年に容国団がシングルス優勝。中国に初のタイトルをもたらしたのだ。
迎えた61年の北京大会。弱冠20歳の荘則棟が男子団体でエースとして大活躍し、優勝に大きく貢献。その勢いでシングルスでも優勝をもぎとった。

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