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伝説の荘則棟「長所対長所の対決であなたは高橋に負けている」とチームメイトに言われました 

[アーカイブ・2003年インタビュー]国家の英雄、失脚、そして投獄。荘則棟、波乱万丈の人生を語る Vol.2

Interview & Photographs by

今野昇Noboru Konno

Translation by

杜功楷・鄭慧萍Du Gongkai, Zheng Huiping

そうそくとう/ジュアン・ヅェトン
1940年8月25日、中国・江蘇省揚州市生まれ、北京で育つ。1961・63・65年世界チャンピオン。71年の有名な中国とアメリカのピンポン外交での中心的な存在となり、その後、33歳でスポーツ大臣まで上りつめるが、76年の江青・毛沢東夫人ら四人組失脚とともに大臣を解任され、失脚した。2013年2月10日逝去、72歳だった

チャンピオンになって、中国の名誉のために頑張った人は中国の英雄、ヒーローになれた時代だったのです

 

「荘則棟の卓球には王者の気迫がある」とよく言われました

 1991年に日本を訪れ、大阪に行った際に星野さんの家に招待されました。星野さんに質問を受けました。ひとつは、「いつ中国は日本選手のドライブを知ったのですか」という質問。日本からの情報がどのように流出したんだろう、それが日本に大きな失敗をもたらしたと星野さんは悔しがっていました。

 その時、私も彼に質問しました。「北京大会は、あなたにとって一番いい試合だったんじゃないですか。それなのにあれが最後の世界選手権になりましたね」

 星野さんはこういう話をしました。「その時、私はドライブ打法を開発して、自信満々で中国に行きました。でも、団体決勝のトップであなたと試合をして、両ハンドの前陣速攻スタイルでいきなり打たれて負けました。その時ベンチに帰って、コーチに言いました。『中国に荘則棟のような前陣速攻の両ハンド選手が出てきたら、私たち日本選手は危ない』と。結局、コーチは『そういうのはほかの選手の心を乱すような発言だ』と怒り、それから私を試合で使わなくなりました」。星野さんは人心攪乱の選手とコーチに見なされたのでしょう。

 資料として8㎜フィルムを見た時に私が感じたのは、日本選手は台から出たボールに対しては非常に強いのに、台上のボールはあまり強くないということ。それはグリップ(握り方)の関係もあるでしょう。

 私の全盛期に、左押し右打ちの選手と対戦した時には「私は絶対に勝てる」と心の中で思っていました。その当時、「荘則棟の卓球には王者の気迫がある」とよく言われました。

 北京大会で、荻村さんは団体で容国団に勝って、シングルスでは周蘭孫に勝って、私と準々決勝で対戦した。その時に、中国首脳陣は心配になって、私にこう言いました。「小荘、大丈夫か? 荻村は周蘭孫に勝っているぞ」と。私は彼らに約束しました。「私は絶対勝てます」と。そして、私は荻村さんに勝ったのです。

 私が負けた日本選手は、木村興治さんと高橋浩さん、小中健さんで、木村さんには3勝2敗で、高橋さんには1勝3敗です。私は左利きと両ハンド攻撃の選手に弱かったのです。小中健さんにも3勝1敗で、彼も両ハンド攻撃スタイルでした。

 北京大会のシングルス準決勝はすべて中国選手だったので、気持ちとしてはかなり楽になっていました。強い国として警戒していたのは日本とハンガリーで、団体でもシングルスでも日本選手に勝って優勝したので、中国国内でも大きな反響を呼びました。シングルスの中でも外国選手に対しても圧勝していたので、気持ちとしても非常にうれしいものでした。当時の目標は世界選手権に出て良い成績を取ることだったので、その目標を達成した喜びがありました。

 60年から62年までの3年間を中国では「3年災害時期」と言い、自然災害が重なり、餓死者が多く出た時期でした。北京大会は61年ですが、その困難な時期に私と私の戦友たちが挑戦する精神で北京大会の優勝を勝ち取ったことで、人民を大いに勇気づけたのです。

 チャンピオンになって、中国の名誉のために頑張った人は中国の英雄、ヒーローになれた時代だったのです。

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